以前、楽曲の投稿にニコニコ動画を使用していたんですが、いろいろ理由があってやめちゃったんですね。理由のひとつに、「自分の作った楽曲を動画というフォーマットで発表することの意味を感じない」というものがありました。『Video Killed The Radio Star』どころか、『Internet Killed The Video Star』な21世紀にそのスタンスはどうなのよ、という思いもないわけではないのですが。
ま、「VOCALOIDを使った曲は動画サイトに投稿されるものだ」というのがかなり多くの人々の共通認識になっているようなので、そこから背を向けた行動してるとちょっと寂しさを感じるときもありますが……って、ニコニコ動画に投稿してたときも寂しさを感じていたような気も……まぁそれはいいや。
動画での発表が前提になっているということで、VOCALOIDについて書かれた出版物の中で、「聞えにくい歌詞はモニターに出す文字で補えばいい。わかりにくい歌詞は、方向性を上手く定める映像があればより完成度の高いひとつの作品になる」(『ポップ・ザ・初音ミク☆』より引用)なんて書かれているのを目にしたことがあります。最初に見たときは、「いや歌詞聞き取れるように作れよ」とか、「映像に表現を依存するのって、音楽が映像に負けてるってことじゃない?」とか思ったんですが、それとは別に、「作者の思う解釈を視聴者に徹底させたい」という作者側の思いもあるのかな、と最近思うようになりました。うん、まぁそういう思いはわからなくもないですね。
でもここで思うのです。「受け手に多様な解釈を許す作品のほうが、深みがあって面白くないか?」と。
ここでやっと(笑)表題曲の登場です。
KAN『けやき通りがいろづく頃』
歌詞はこちら。
http://www.uta-net.com/song/47801/
ポップスとしては標準的な長さの曲ですが、歌詞の中には5人もの登場人物がいます。
歌の主人公である、「ぼく」
そのぼくと話している、「君」
君がずっと好きで君との恋愛が成就した、「彼」
君のことをずっと好きだった、「あいつ」
ぼくの、「好きな人」
KANさん本人が著書やライブのMCなどで、このように説明しています。でもねぇ……「ぼく」も実は「君」のことが好きで、「ぼく」と「あいつ」を重ね合わせているんじゃないか……とも思えてしまうんですよね。初めてこの曲を聴いたときはそのように感じましたし、ファンの人の個人サイトやブログなどで似たような解釈をしている人を見かけたことがあります。
KANさんもそんなファンの存在を知ってか知らずか、「でも、『ぼく』の『好きな人』は本当は『君』かもしれない。そうするととても切ない歌になりますね」みたいなことをライブのMCで語っていました(※)。
そんなわけで、この曲に限らず、多様な解釈を許す余地があるからこそ作品は愛されるのかもしれないなぁ、などと思ったりするわけです。
ついでですので、YouTubeにアップされていたこの曲のライブ映像を2つ貼っておきます。
(※)そのライブMCでは、KANさん自身による衝撃的なさらなる別解釈も披露されているのですが、ネタバレになってしまいますのでここでは割愛いたします。
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